『愛の渇き』三島由紀夫

T-Bookも第3回目になりました。今回は三島由紀夫さんの『愛の渇き』です。


実は今まで手に取った三島文学は『潮騒』『女神』に続いて3冊目になりました。


本作品では、物語全体を通して、非常に洗練されている言葉遣いから、特に多彩な比喩表現や感情描写などに文学の「美しさ」を感じ取ることができます。例えば僕達が普段、桜を見て美しいと感じること、桜が散っている様を美しいと感じること、このように本来は対照的な物事である生と死の対象に対して、僕たちは無意識ながら感覚的に類似した美しさを見出している点を再発見することができます。


本作品の内容を一言で述べるとしたら、嫉妬と憎しみに支配された女性の苦悩と幸せのカタチってとこでしょうか。女性は本当に怖いです。


また、男性と女性が同じ人間であるという前提が一種他人を判断する際の基準となり、理想と現実との狭間で人間関係に悩んでしまうこと、またその前提が押し付けがましい常識や偏見となって人間を盲目にしてしまうことが本作品を通して感じられました。


そもそも人間って何が同じで何が違うんでしょうね。


僕達人間には2本の腕があって、2本の足があって、眠る時には目を閉じて、、、人間は皆同じように生きている。


腕や、足、目など、僕たちが持つ身体的特徴を他者に見出した時、僕たちは僕たちを、また自分とは違う他者を同じ人間だと認めている、同じ人間とは、単にそういうことですか?

 

たしかこの話の延長は以前話題になった『死とは何か』の中でシェリー・ケーガンが語っているものです。彼は死を論理的、計算的に考え、説明可能なこととして捉えることで、人間が持つ死に対する誤解や恐怖を乗り越えようとしました。

 

しかし僕はそこで、死に対する著者の考えや議論に半ば同意しながらも、ある種神聖なテーマである「死」について安易に理解しようとする試み、読者が意見に賛同し、時にそれぞれが死に対して思考するという、そのプロセスそのものに拒絶反応を示してしまったのです。結局僕が(知りたいというより)無理とは知りながらも何とか触れてみたいと願うような議論はそこにありませんでした。

 

それを死に対する単純な「知的エラー」と捉えるのであればかつてエマニュエル・トッドが著書『問題は英国ではない、EUなのだ』述べたように、「歴史を観念的な問いから出発して理解しようとした」僕の誤りだったのかもしれません。


こうして考えると、小説を読むということは、例えば「死」や「人間」の在り方といったあらゆる概念の定義づけを担う責任から解放され、小説家が言語化する周辺的な事柄によって、(読者の持つそれぞれのコンテキストから)物事の本質に接近しているというある種独断的な認識を持つことできるのです。


その現状を中庸としてを受け入れ、他者との共存を目指すのか。


テクノロジーと多様性を崇拝し、今もなお制限されている社会の闇に光を灯すのか。


こうした未来の在り方にも人間が無意識に求めている生と死の存在が、そして人間の考える「美」があるのかもしれませんね。

 

この文脈で最後に『愛の渇き』のラストシーンを振り返ってみましょう。

 

きこえるのは遠い鶏の鳴音である。まだ夜明けには程とおいこの時刻を、鶏が鳴き交わしている。遠くの、いずこともしれぬ一羽が鳴く。これに応ずるように、また一羽が鳴く。また一羽が鳴く。また別の一羽が鳴く。深夜の鶏鳴は、相応じて、限りを知らない。それはまだつづいている。際限なくつづいている。・・・・・・
・・・・・・しかし、何事もない。

 

ではまた次回!