『ツアラトウストラはこう言った(上) 』ニーチェ(著)氷上英廣(訳)

こんにちは。
T-Bookです。今回で第10回目となりました。


最初に掲げた目標(1ヶ月で10冊の本を読むこと)を達成できたことは素直に嬉しいものです。
後半は大分ペースダウンしてしまいましたが、毎日本を手に取り、文字を読むことを習慣づけることができたのではないかと思います。


ひと段落したところで振り返ってみると、今まで紹介してきた本は4つに分類されます。


ここでそれぞれ少しずつ感想を。

 

①小説
スクラップ・アンド・ビルド(羽田圭介
愛の渇き(三島由紀夫

 

小説は気分転換をするのにおすすめです。疲れた時1つ小説を入れたりすると、うまく気持ちを切り替えることができたりしますね。あと小説には鮮度があることを知りました。というのは本が描かれた時代と自分自身が生きている時代のギャップがあればあるほど、内容の本質的な理解に苦しみます。みなさんは普段賞味期限切れの食材を使った料理で満足していますか。それを最も深く味わうためのふさわしい時期があるという点で本は食べ物と似ています。

 

といっても今までの経験上小説は比較的あっさりと読めてしまうものが多いため、読み終わった後の(自分が少しだけ成長したような錯覚を抱く)満足感に物足りなさを感じます。単なる暇潰しに本を読むのであれば別ですが、そのような態度で本を読むこと自体、僕はあまり好きでないため、今後はT-Bookは「自身を成長させる(と錯覚する)本」を紹介していきます。

 

思想書
武士道(新渡戸稲造
超訳 ニーチェの言葉(フリードリヒ・ニーチェ
ツアラトウストラはこう言った(フリードリヒ・ニーチェ

 

全体的に難解な内容が多かった印象です。誤訳や誤解も多いように感じますが、やはり原典や直訳された本には強いメッセージというか、考えさせられる内容が多いです。特に今回の『ツアラトウストラはこう言った(フリードリヒ・ニーチェ)』には『超訳 ニーチェの言葉(フリードリヒ・ニーチェ)』で編者によって削り取られていた作者本来の文脈や一貫性、作者の真意などが見えてくる(ような錯覚)がありました。ネット記事や新聞、雑誌といったメディアで言及される内容の正しさや、善悪といった評価基準を超えた本質(と錯覚するもの)が見えてくること、僕自身思想書を読む楽しさはおそらくここにあると思っています。

 

③エッセイ集
ゆるく考える(東浩紀
新復興論(小松理虔)

 

全てのエッセイ集に共通するのかわかりませんが、こうした本は1日で一気に読んでいく本ではないですね。少しずつ少しずつ読み進めていく人向けです。

 

④ビジネス書
情報だけを武器にしろ(堀江貴文

 

ビジネス書は非常にスピード感が感じられる印象です。
自分の中で変えてみたいこと、チャレンジしてみたいことがあるとしたらビジネス書が背中を押してくれるかもしれません。個人的にビジネス書(特に考え方を広げるとき)でよく手に取る作者は堀江貴文氏(未来的)、ひろゆき氏(現実的)、与沢翼(ストイックさ)、東浩紀(本質的)です。こうしてみるとやっぱり思想系が多いですね、、、

 

⑤その他
ゼロトレ(石村友見)
教育に関する考察(ロック)

 

ハウツー本であれば、重要なところ以外は飛ばし読みでいけます。
ゼロトレでは作者のバックグラウンドを簡単に紹介しましたが、そうした理論でも、教訓でもない(人間的な失敗や遠回りをした経験を追経験する)部分に、今を生きる私たちが意識的な行動を始めるきっかけを見出すことができると思えるのは僕だけでしょうか。


意識的な行動、、、

 

その1つとして僕の勝手な推測ですが、
「ツアラトウストラはこう言った」でニーチェは「意志すること」が重要であると述べました。
本作品で「意志すること」に言及している箇所は以下の通りです。

 

わたしは人間たちにひとつの新しい意志を教えよう。これまで人間がめくらめっぽうに歩いてきた、この地上の道を自覚し、すすんで意志することだ。それを是認し、もはや、病人や死にかかっている者のようにそこからわきみちに逸れてゆきなさるな!

あなたがたは一つの神を、思考することができるか?できない。ーしかし、あなたがたは真理への意思がある。この真理への意思とは、一切のものを、人間が思考することができ、見ることができ、聞くことができるものへと変えようとする意思である。あなたがたは、あなたがたの感覚でつかんだものを、究極まで思考しなければならないのだ!

 

わたしの全ての感覚は、つねに悩み、牢獄につながれている。しかし、わたしのいしは、つねにわたしの解放者、わたしによろこびをもたらす者としてやってくる。意志することは、解放する、自由にする。これが意思と自由についての真の教えである。


あなたがたはありとあらゆるものを、思考的に可能なものにしようとする。ということはあなたがたが、そうしたありとあらゆるものが、はたして思考のなかに取り入れられるかどうかに、かなり疑念を抱いているということでもある。

 

あなたがたの意思の欲するところは、ありとあらゆるものが、あなたがたに屈服することなのだ!一切のものがなめらかな精神の鏡となり、精神の映像となり、こうして精神に服従しなければならないわけだ。最後の賢者たちよ、これがあなたがたの意思の正体であり、それは「力への意思」と言えるだろう。それはあなたがたが、善と悪について、もろもろの価値評価について語るときにも、あてはまる。あなたがたは、さらに、その前に膝まずいて、礼拝するにたるような世界を創造しようとする。これがあなたがたの究極の希望であり、最後の陶酔なのだ。

 

意志することは、自由にすることだ。しかし、この解放者をもなお鎖につないでいるものがある。それは何か?『そうであった』ーこれこそ意思が歯ぎしりして、このうえなくさびしい悲哀を噛みしめるところである。すでになされたことに対しては無力である、ー意思はすべての過ぎ去ったものに対しては怒れる傍観者なのだ。意思は、さかのぼって意志することができない。意思はじかんを打ち破ることができない。時間の勝手な欲求をくじくことができない。ーこれが意志のこのうえなくさびしい悲哀である。


みなさんどうでしたか?


正直なところ、僕はこの作品で述べられている内容のほとんどが理解できませんでした。


しかし開始20ページくらいで「この(作者の)思想はかなり危険だ」と警戒したところから、色んな意味で引き込まれていったのは確かです。氏と僕自身における世界の認識には大きな溝があったのです。こうした作品が時代を超えて今もなお読み継がれている事実を、僕たち人間は受け止めなければなりません。

 

それでもなお人間として人間が生きている限りは。


ではまた次回。