道草

 

五右衛門風呂の話を聞いてから数日経ち
記憶の残り香を吹き消す様に梅雨が始まった。

雨なんてと言わんばかりに
祖父は日本酒を勧めてくる。

 

普段はテニスで汗を流す父はというと
昨晩は既に酔いがまわってたせいか

Oculus Quest で声を荒げて
コンピューター相手に対抗心を燃やしていた。

 

お酒を飲むと気持ちが良いのだろう。
私もいつかは父になる。祖父になる。

ここで父性とは何か>と尋ねられれば
私は真っ先に父の名を挙げるはずだ。

 

父性という言葉は私の父からのみ滲み出る。
昭和的で伝統的。日本の父親像のようなもの。

父はある時焚き口で悪戦苦闘していた私に
薪を斧で割るやり方を教えてくれた。

 

小さな斧が父の頭上から勢い良く振り落とされる瞬間は
薪が裂けて鈍い音が出るのを怖がる子供のように目を背けてしまう。

父の前では私なんていつまで経っても子供なのだ。
昔の父がそうだったように。

 

「大きな薪はな。こうやって沢山燃えてる時に入れるんだ。」
こうやってぼんやり父の指導を聞いていると

世の中の大抵のことは

やろうと思えばできるのだと錯覚する。

 

私は焚き口の炎を眺めていた。

 

世間では教育の話になると
大人は我が子に大きな炎を期待する。

高い点数。高い偏差値。合格。安定。結婚。
しかし期待の炎は画面の向こうで燃えている。

 

親の期待に応えるべく
子供はマッチ片手に大木へと向かう。

きっと燃やせるだろう。
絶対に燃やさなければと。

 

きっとそうだったに違いない。


昔も今も私はその1人だったのだから。

親になれば大木1本も燃やせずに肩を落とす我が子を見るのは耐え難い。
自己責任。自己改革。自分らしさ。自由。

成功者は成功よりも失敗から学べと言う。

 

いつからだろう。

 

冷たい言葉は子供たちを

社会という荒波に飲み込んだ。

たとえどんなに便利な社会でも

冷たい言葉が溢れる日常はなんだか寂しい。

 

しかしそんな社会でも

そんな寂しい日常でも

いつの日か私は父親になる。

いつかそんな日が来る

 

私が父親になるその日には
私が我が子に会えるその日には

あの薄暗くて気味の悪い焚き口で
大きな薪の割り方を教えてくれた父のように

 

強くて優しい言葉と背中で
子供たちを守り支えることのできる

強くて優しい父親に

私はなりたい。

そんな父親に。

 

また次回。