『人類は何を失いつつあるのかーゴリラ社会と先住民社会から見えてきたもの』 関野吉晴&山極寿一
こんにちは、T–Bookです。
今回は「父性の復権」の続きで、というよりも参考文献を参照した延長で見つけた
『人類は何を失いつつあるのかーゴリラ社会と先住民社会から見えてきたもの』
(関野吉晴&山極寿一)
という作品です。
以下ざっくりとした内容をまとめてみました。
歴史
最初の霊長類誕生は650万年前の北アメリカ(生物史では恐竜が絶滅した時期)
原猿類:食虫類に近い霊長類。ほとんどは夜行性で身体が小さく、嗅覚と聴覚に頼った生活をしている。
真猿類:視覚が発達していて、ほとんどが集団で暮らしている。
新世界ザル:中南米に棲息する真猿類。
旧世界ザル:アジアとアフリカの真猿類。
類人猿:テナガザルやオランウータン、アフリカのゴリラ、チンパンジー、ボノボがいる。人類に近い種。
テナガザルを除く類人猿と人類は同じヒト科に分類される。
人間とチンパンジーのゲノム解析で両者の身体を構成する遺伝子は1.2%しか違わない。
古来から動物には社会がないと考えられていた。
社会があるは言葉によって伝えられるかいう基準があるかどうか。
⇨人類は誕生した瞬間から言葉を持っていたわけではない(今西錦司)
「動物社会から家族が成立していく条件」
1 外婚制
2 インセスト・タブー:
近親間では性交渉をしないこと。
3 男女の分業
4 近隣関係:
複数の家族が集まって共同生活しなければ「家族」は存続できない。
その後の研究
複数の猿に餌を投げると、餌を取る個体は決まっていることがわかった。
⇨猿の群れには直線的な順位が存在している。
⇨猿にも社会がある。
ニホンザルの社会構造にはオスとメスで形が全く異なっている。
オス
オスには直線的な順位がある。
オス達はいくら序列が高くても、社会的な地位に執着しないため、どんどん群れから離れていく。
メス
群れの中で家系ごとに順位がある。
家系のトップのメスが自分の娘をサポートして、ほかの家系のメスたちに勝たせようとするため。
メスは家系の内側にも順位がある。姉妹のなかで一番強いのは末の妹。
「末子優位の法則」
母ザルは最も弱い年下の娘を庇うため、姉達よりも末子が強くなる。
⇨メスは同じ血縁のメスとともに連携して生きている限りは自らの社会的な地位は守ら れる。したがって、メスは自分が生まれ育った集団を決して離れない。
人間のメスの多くは逆に、家族から離れて新しい人間関係や社会関係を築いていく。
1950年代末
メスが他の集団に入っていった。
チンパンジーのオスでは集団を離れずに血縁関係のオス達が頼りあって障害を送ってい た。
ゴリラのオスは、生まれ育った集団を出るが、他の群れに入ることはなく、自分で新し い集団を作る。
⇨人間の祖先は猿の仲間ではなく、ゴリラやチンパンジー型の社会に属している?
山極
ゴリラはメスと子供に認められて初めて父親になる。父親はメスと子供が作った構築物。
人間社会の父親とは、周囲のすべての人間が合意した存在、社会制度である。
ゴリラの父親は子育てを行う。
特に母親が居なくなった孤児は父親に引き取られて、一緒にすごしたり同じベットで眠ったりする。
危機が迫ったら子供を守るのは父親の役割である。
ゴリラの家族では子供がある程度成長すると、子育てが母親から父親にバトンタッチされる。そうなれば母親にとって子供はほとんど意味を失ってしまう。
ゴリラのドラミング
(2本足で立って胸を叩く行為)
宣戦布告の合図ではなく、「自己の提示、相手に対する好奇心の現れ」であって、向かい合った相手に対して自分の存在を相手に知らせる行為。
大抵はどちらが強いか弱いか明らかになる前に別れあってしまう。
⇨ゴリラの社会は勝って相手を退けるのではなく、相手と同じレベルで共存するという「負けない論理」で作られている。
ニホンザルの社会は「勝ち負けの論理」で強い猿が来ると弱い猿は餌を離さなければならない。強い猿だけが餌を独占できる。あらかじめどちらが強いか分かっているから、争いは起きにくい。
人類の家族というのは、人間の平等性や対等性を担保するためのシステム、つまり誰もが負けないようにするために作られた「社会の装置」である。
日本はかつて「負けない社会」だった。
例)鎮魂、魂振りの施設
負けた人の祟りを恐れたため、魂を弔う神社を建立した。
「棲み分け」今西錦司
「勝ち負けの社会」
クリストファー・ボーム(アメリカの人類学者)
チンパンジーは、誰もが見ている場でルールを犯すとみんなが怒る。一方で、仲間が見ていなければ規範を犯してしまう。視覚的な世界を生きている。
人間は規範が内面化している。誰が見ていなくても、規範を犯そうとする自分を律する。羞恥心と罰則を伴う規範によって社会の慣習を定めた。
個人に規範を守らせる力は「井戸端会議」である。
グローバリズムが進んだ現代では規範が通じないため、大きな軍事力を持つアメリカなどによる抑止力が必要である。
山極
お互いの面子を立てるために重要なのは当事者同士ではなく、仲裁者である。
アメリカといった国が仲裁者となって対立する2国を押さえつける形だと面子は立たない。
仲裁者は両者よりも弱い存在でなければならない。
例)日本の相撲
関野
集約農業で穀物が作られ、長期保存できるようになったために争い生まれた?
現在の社会
関野
いまの医学は専門によってどんどん細分化されている。
⇨身体全体を広く見ることができる医者は減っている。
コンビニやファストフード店が増えたことで孤食が社会問題になっている。
教育を単なるサービス業と捉える風潮。
発展途上国ほど年寄りが評価されなくなっている。
一方でイヌイットやエスキモーの村では年寄りの指示に若者が従っている。
気候や自然環境、状況によって判断する経験や知識を持っている年寄り。
山極
現代は経済性、効率性を最優先する時代。
調理する手間を省いて自由な時間を持つという利便を追い求めた結果作られた環境。
共食は社会を作る手段だった。
「丸投げ文化」「無責任文化」
ザイールの内戦時に出会った少年兵に
「なぜ先頭に加わったのか」と聞くと
「家族を殺されたからだ」と答えたというエピソード。
戦いは究極の破壊であると同時に究極の愛の表現であるのではないか、と思った。
共感力があるからこそ、共感する相手が傷つけられると憎悪が生まれる。
共感力が高いほど、激しい争いが生じる。
石器は(武器ではなく)あくまで食器だった。
武器は脅しの道具だった?
土地の私有化
日本には猿を身近に見ることができる環境あり。
インド
ハマヌーンという猿の神様が祀られている。
ヨーロッパでは猿を見るためには動物園に行く他ない。猿が生活している姿を見ることはできない。
人間は何を失ったのか?
人間が人間的な時間感覚でしか生きることができなくなって、ほかの動植物に合わせることを忘れてしまった。
⇨狩猟や採集の場面だけではなく、食事や祭りでも多様な時間の感覚や概念が存在した。
五感で感じ取ることが薄れた。
自分の欲望を抑えてでも食べ物を持ち帰って、みんなが喜ぶ姿を見たいと思う人が居なくなった。
⇨好きなことをやるのが人間の本性だと考える人が増えた。
家族の存在感を失った。
世代間、集団間が共有する価値の線引きがなくなった。
上の世代の人に教えてもらう新しいことがなくなってしまった。
身内の評価が薄れてきた。
品位を失った人間。
待つことができなくなった人間。
⇨効率性、利便性、即効性を求める社会の弊害。
人間が他者に食べ物を分け与える「自然さ」とは?
未来の教育は?
ルールや規範を守ることが両者の面子を立てることに繫がるという認識を持つ。
「勝ち負けの社会」から「負けない社会」へ
不在を許せる心を育てる。
人類の祖先が行わなければ我々は存在しなかった大きな業績とは?
山極
「食物の共有」「共同保育」
人類のあらゆる生活が「家族」や「集団」とともにあること。それが人間としての出発点。
家族や集団とともにあるという心ー「共感力」
関野
「二足歩行」
その他
非常に高い共感力が争いを生み、戦争を引き起こす。
本来であれば、家族とコミュニティの論理は対立する。
家族:見返りを求めずにお互いに奉仕し合う関係にあって、親は子供のためにすべてを投げ打つ。親のものを子供が勝手に使っても、それを泥棒とは言わない。
複数の家族が集まった共同体
構成員の合意に基づいて義務や権利が決まっている。何かして貰えばお返しをする間柄。
⇨論理の違う「家族」と「共同体」という2つの論理を両立できるのが人間。
共食(仲間と家族と一緒に食事をするということ)は人間ならではの特徴。
関野
先住民族マチゲンガの村
イナゴ、甲虫類の幼虫、小魚、貝、川ガニ、川エビなどの小さな獲物は自分1人で食べる。
ペッカリーなどの大きな獲物を協力して捕獲した日はお祭り騒ぎになる。
⇨明確な役割分担
解体は男、内臓を取り出すのは女の仕事。女たちは、内臓を各家庭に均等に分配して、それぞれが家に持ち帰って煮る。
男達は櫓を組んで24時間くらいかけて弱火で肉を燻す。2回目の分配が行われて共食が始まる。
男と女は別々の席で食べる。小さな子供は女達と食事をする。
山極
霊長類は自分で獲った小さな獲物やフルーツなどはその場で食べる。集団で肉を手に入れるのは男の役割だった。人間にとって肉はうまいだけではなく、カーニバルのような儀式的な意味合いを持っていた。
教育は非常に人間的な行為である。
進化の過程から見ても、教育を意図して行うようになった動物は人間以外に存在しない。
人間は目標を持つ動物である。
⇨今の自分が将来は違う自分になるということ。
⇨自分の変化を決めるのは自分ではなく他者である。
⇨他者がいるからこそ、教育が誕生し、成立した。
「医学を学びたい」「アマゾンに行きたい」「ゴリラを知りたい」といった
なにかしたいという時の「なにか」だけは教育で育てられない。
グローバリゼーションに対抗する概念は「多民族多様性」
ひとりで生きていけるはずなんだけど、ひとりではすべてやらずに何かを人に頼ろうとする。同時に自分も人に力を貸すという人間らしい生活をしているアフリカの狩猟採集民。
以上。
たまには動物や歴史といった小さな眼鏡から人間をじっくり眺めて見るのも良いですよね。僕たち人間はいつからか、この広い自然、限られた彩のある動植物達が生きる地球を人間の世界として見るようになってしまった。あらゆるものが見えるもの感じられるものとしてそこにあるという感覚、望めば望むだけのものがそこにあるという錯覚の中がこの世界を動かしているかと思うと、空虚な日常に癒しを求めてしまう人間の気持ちが分かるような気がします。
空虚な日常…
みなさんはどうですか?
地球に暮らす全ての動植物に通じる言葉で
明日も変わらず生きていけますように。
ではまた次回。