あれから

大学院を卒業して約4ヶ月が経過した。

周りの同級生は次々と就職内定を決め、

それぞれの目標へと旅立っていった。


一方の私はというと、4月に開始した台湾での就職活動が全て失敗に終わり、その殆どが計画通りに進まなかったことに対して肩を落としていた。当時を振り返る。


もともと人前で話すのは得意な方だと、当時から私は本気で思っていた。そして今まで自分にはあらゆる困難やプレッシャーと正面から向き合い、乗り越えてきた経験があると自負していた。大学院に進んだのも、全ては海外で教師の仕事がしたい、その一心だった。


そうして念願の海外に出て、就職活動を行なっている間にいくつか学んだことがある。

まずはじめに私は、大学院卒業というレッテルを剥がした当時の自分の無力さを痛感した。

プロの教師として求められる知識も技術も経験も私には圧倒的に不足していたのだった。


それが最も如実に現れたのは面接の一環として行われた模擬授業である。

私はあらかじめ準備していた教案とスライドを基に初級日本語の授業を行った。

面接官の先生方を生徒に見立てて行われたその授業は、約20分ほどのものだった。


時間が驚くほど短く感じられた。普段の授業では生徒の前で私は教師になる。

だから私は面接官として座る先生方の前で懸命に、教師をした。

実際予定していた時間よりも若干超えてしまったが、私としては及第点だった。


お疲れ様でした。と面接官の方から小さく言われたとき、

できることはできたんだ。と胸を撫で下ろした。

そのときもう1人の面接官の方が尋ねた。


「あなたは中国語使えないの?」

 

私はドキッとした。

というのも、これまで私の授業では、英語を補助的に使うことはあっても、中国語を使って教えた経験は全くと言っていいほどなかったからだった。


「少しならできますが…」

 

私は小さくそう答えたものの、

当時話せたのは日常会話で使える単語やワンフレーズのようなもので、

それらは到底、日本語の授業で扱えるものではなかった。


初級クラスでは特に些細なコミュニケーションでも日本語で行えば生徒の負担になる。

日本で行われる授業では、たとえ初級クラスであっても、自然な日本語に出来るだけ触れることで、日本語の自然なスピードや発音に生徒たちの耳を慣れさせるという目的がある場合は、日本語を日本語で教えること(直接法)が求められることが多い。


しかし少なくともその教育機関では、生徒の母語(中国語)を効果的に使うことで、生徒の負担を少なくする試みが一般的だったのだ。というよりもそれが可能であることが、台湾の教育機関における強みではなかったのか。現地で働く先生方はたとえ日本人であっても中国語を流暢に使いこなす人が多い。


そのときの私にも唯一可能であると思われた解決策とは、できるだけ優しい日本語を選びながら説明を行うなどして、できる限り分かりやすい授業を行うことだった。

 

しかし模擬授業で話した私の「優しい」日本語は、「難しい」と一蹴された。


面接官の先生はティーチャートークと呼ばれる(初級の生徒にも分かりやすい言葉やスピードを用いる)教師特有の話し方を私の前で実践してみせた。それは時間にして1分も満たなかったが、日本人である自分でさえ、日本語を学んでいる外国人になったような気がした。それほどに洗練された技術だった。


たしかにティーチャートークは分かりやすい。しかし一般的な日本人の話し方と比べると、授業で使われるティーチャートークはいくらか不自然さが残るため、長期的には生徒の学習の妨げになるであろうと私は感じていた。


教室でティーチャートークを使っていては、いつまでも外国人から抜け出せない。

少なくとも私は生徒として、そう思い続けながら外国語学習をしてきた。

 

立場の違う先生と生徒、それぞれの期待と不安が交錯して、当時の私は道を失っていた。

 

 

 

つづく